「名前」と「リアル」

 kabu.comの私設取引システム(株式の夜間取引)が開始されたことを伝えるNHKのニュースで、顔をさらしたうえで、本名ではなくハンドル(ネーム)でインタビューに応じている個人投資家を見た。

 ある程度の年数ネットをやって人と交流を続けていれば、ハンドルも自身のアイデンティティの一部であるという感覚は、もちろん理解できる。けれど、あくまで自分の「一部」にすぎないのであって、やっぱり私にとってハンドルは、必要以上に自分の正体を明かさないための仮面だ。顔という個人情報の最たるものをさらすような状況になれば、きっと本名を明かすだろう。これは私だけの特別な感覚ではないと思う。

 ・・・と、テレビ画面の投資家のインタビューを見ていて感じた違和感の正体を考えていたのだが、私にとって「顔をさらすときに使う(あるいは、使ってほしい)本名」というのは、戸籍上の名前ではないことに気づいた。つまり、「本名」とはいっても、法律的にいえばそれは「本名」ではないのだ(こう書けば言わずもがなだが、念のため、私はオットと法律婚をしたうえで、可能な限り通称を使用するという手段で、夫婦別姓を実践している。もちろん、私にとっては間違っているのは「通称」のほうではなく、すべての夫婦に同姓を強いる制度のほうだから、だれになんと言われても自分の本名は「通称」のほうなんだけど、それを「間違っている」と糾弾する人もいるだろう)。

 飛行機が落ちたとか、飲酒運転の車に追突されたとか、犯罪の犠牲になったとか、そういった不幸な事故・事件のニュースに接するときによく思うのは、もし自分がそういった出来事に巻き込まれて命を落とすようなことがあったら、自分の名前はいったいどういうふうに新聞に記載されるのだろうということ。まあ、そんな場合には、どのみち自分は死んでいるのだからどうでもいい話なのかもしれないけれど、戸籍上の名前で自分の死亡が報道されたら、私の友人や知人は、それが私のことだとわかってくれるだろうか。

 何が「リアル」な世界なのかは、人それぞれで違うのだ。冒頭の個人投資家にとっては(どの程度その世界で知られている人なのか、私にはまったくわからないのだが)、きっと、ネット上での株について語るコミュニティが「リアル」なのだろう。こんなふうに自分で自分に説明をしてみて、違和感の半分は解消したけれど、残りの半分の何とも言えない気持ちの悪さは、いぜんとしてもやもや残っている。