皇室典範についての議論の意味

 ロージーさんのコメントに触発されて、少し考えてみた。

 皇室典範改正についての議論、つまり女帝・女系を認めるかどうかという議論に、私はこれまで「ほおかむり」を決め込んでいた。「ぬるま湯」にして「なんちゃって」だけれど、やや左でフェミだという自己認識がある自分にとっては、この問題を真剣に考えることが、なんだか踏み絵を踏まされるような気がしていたのだ。10年以上前ならともかく、ここ数年(つまり愛子ちゃんが生まれ、かつ、もはや次の出産は望みようがないという認識が一般化して以降)の皇室典範改正の議論は、(何としても)天皇制を存続させねばという発想が前提になるわけだから。フェミニストがみんな思想的に左だというわけではないだろうけれど、やはり親和性は強いはず。うまく表現できないのだけれど、フェミニスト的発想が天皇制存続のために利用されるように感じたのだ。戦前に女権論者たちが、戦争への積極的な協力へと絡め取られていったように。

 そんなわけで、この議論についてのこれまでの自分の見解は、「どーでもいいじゃん」というものだった。“もともと市民権を保証された人たちでもないのだし、そもそも、憲法の精神と相容れない存在(=精神において違憲な存在!?)なのだから、憲法上保証された「両性の平等」なんて、実現されていなくたっていいじゃん。まあ、ほっといたら「時間切れ」になって、それはそれでいいんじゃないの・・・。”

 でも、これこそがまさに無責任な思考停止なのかもしれない。皇室内部での両性の(不)平等という観点しかなくて、「自分の問題」としてとらえる契機がまったく欠け落ちているのだから。そこへ、前のエントリへのロージーさんのコメント。

ロージー 『私、この報道みてると、どうすれば子どもに男と女は平等だと教えることができるのか、途方にくれます』

 言うまでもなく、天皇は日本国と日本国民統合の象徴である。憲法の教科書なんかには、「象徴天皇」を定めた日本国憲法第1条の主眼は「天皇が国の象徴たる役割以外の役割をもたないことを強調することにある」(芦部・46頁)なんて書かれていて、「象徴」ということのもつ積極的な(?)側面については触れられていない。もちろん、「統治権の総攬者」にならないように抑制することそれ自体は大事なことなんだけれど、この「象徴」の意味を、もう少しよく考えるべきなのではないかと思う。つまり、その存在が何らかの「価値」を「象徴」しうるのだ、ということを。

 条文の文言上はあくまで「天皇は」であって、「天皇制は」とか「皇族は」とはなっていないわけだけれど、現行の皇室典範によれば、先日生まれた赤ちゃんが次の次の世代の天皇と想定されるわけで、やはり「何かを象徴する存在」たりうるわけだ。

 ここ数日の祝賀騒ぎを見ていると、男系男子のみに皇位の継承を認める皇室典範によってその存続を裏打ち(?)されている天皇制あるいは天皇という存在は、「両性の不平等」を象徴するための存在なのだとしか言いようがない。つまり、両性の不平等とか家父長制という価値によって、「日本国民」は「統合」しているということになってしまうのだ。

 こういう単純なことに今まで気づかず、ただ目をそらしてニヒルぶっていた自分が、やや恥ずかしい今日この頃。

 とはいえ、皇室典範が改正されるなんて、国民の半数以上がそれを望んでいるからと言って、やっぱりありえないのだろうなあ。もし改正されて女帝がありうることになったとしても、それは男性の皇位継承者がいなかった場合のスペア。少なくとも、愛子ちゃんが悠仁ちゃんに先んずるなんてことはないのだろうなあ。