「そのままでいこうと思う」

 表題は、婚姻届を出したモーグル上村愛子選手が、記者会見で相手の氏に変えるのかを問われて答えた内容。審判が「ウエムラ」で強い印象を持っているからというのがその理由で、話し合って決めた、とのこと。婚姻届を提出したということなので、戸籍上は皆川、競技等では通称の上村で通すという趣旨なのだろう。
 もちろん、お相手の皆川選手が上村姓にするのでなければ、の話だが、しかし、どうしてこの種の質問は、女子選手ばかりが受けるのだろうか。「夫婦同氏」の制度がジェンダー中立的ではないことの証左のひとつだと思う。
 かつて、柔道の女子選手が「旧姓で金、新姓でも金」「ママでも金」と答えたのをみて、げんなりしたことがあったが、今でもよくわからないのが、そう答えた彼女が、どんな狙い、あるいはどんな気持ちでそう答えたのか、ということ。自分の社会的な認知のされかたについての発想そのものが、2人の女子選手の間で大きく違っているのかもしれないが、スキーと柔道という異なる競技のコミュニティの間にも、もしかしたら大きな価値観の違いがあって、あるいはそういうことが反映したのかな、とも思う。
 ともあれ、上村選手おめでとうございます。競技生活もプライベートもハッピーでありますよう。末永くお幸せに。

映画「西の魔女が死んだ」

 Wowowでやっていたので、映画を観た。郵便屋さん(高橋克実)が登場するほかは、原作にほぼ忠実。郵便屋さんは、作品全体に安定感を与えるために入れたのだろう。
 原作を読んだのは2年半前。作品の山場のひとつ、主人公まいが、隣家の中年男ゲンジに嫌悪感と猜疑心を抱きながら祖母にぶつかるシーンは、やはり、胸に刺さる。2年半の間に、結局、自分は成長していないという自省の念とともに。
 あと、やはり同じように感じたのは、こんな人が、幼かった頃の、若かった頃の自分の側にいてくれたら、という思い。ここまで理想的ではなくとも、少なくとも、ありのままの自分を受容してくれる人が。とはいえ、当時の私の側にそんな人がいたとしても、私のほうにそれを理解する感性はなかったかもしれないが。
 緑がきれい。食べ物が美味しそう。香りを想像させる映像。カリッと焼けたトーストをかじる音が印象的。久しぶりに泣いた。

布ナプキン

 先日友人たちと久しぶりに飲んでいたら、そのうちのひとりが、「布ナプキン、すごくいいから試してみて」と言う。
 このところ、からだが本来持っている力を取り戻したいとは思っていて、いわゆる「経血コントロール」は試みて、少しずつできるようになってきてはいるのだけれど、布ナプキンまではちょっと・・・と抵抗があったところ。ウェブで使用している人の感想などは見かけていたのだけれど、やはり、気心の知れた、感覚もある程度わかっている友人が勧めてくれれば受け止め方も違うもの。おすすめのサイトをチェックしていちおうの納得をしたので、メイド・イン・アースのオーガニック・コットン製のものとりあえず最小限買ったうえで、パッド部分だけを、おりもの用シートとして試してみた。
 というわけで、暫定的な結論。すごくいい。
 ひとつは、使用感。
 まだおりもの用シートとしてしか試していないので、何とも言えないけれど、使い捨てのものを使っていたときのような、座位から立ち上がるときの貼り付き感がない。さすがに排卵日周辺はおりものも量が多いので、くっついたりするのだが、不快なべたつきはない。
 布製のパッドだけを使っているので、ショーツに固定するすべがないのだが、これが、よれはするものの、不思議なほどずれない。
 もうひとつは、臭い。
 いつ頃からか、使用済みの生理用ナプキンやおりもの用シートの臭いがものすごく気になるようになっていた。生理用のポット(?)などに数日放置しておこうものなら、獣臭さと、曰く言い難い吐き気を催すような臭い。夏の排卵日周辺など、1日使い終わった段階のものですら、ものすごく・・・。昔は、生理が終わったときにまとめて捨てれば、そんなに臭いは気にならなかったのに、どうして、と思っていたのだけれど、これは高分子吸収体のしわざなんだとか。
 もちろん、布ナプキンなので、汚れたらすぐに洗う、ということも、臭いが気にならない要因のひとつだとは思うのだけれど、同じように1日使って汚れたものの不快さがまったく違う。もちろん臭いはするのだけれど、その種類が違うというか。「匂い」といってもいいほどのわずかな、ほのかなもの。
 この、自分が汚した/排泄したものの臭いというのは、大げさに考えれば、生理が密室で語られてきた問題であることとも絡んで、自分の身体や自分自身に対する肯定感の程度にかかわってくるんじゃないだろうか。自分の体から出てきたものが、あまりに不快な臭気を発すれば、それを排泄する自分の身体に対する嫌悪感にもつながるだろう。ひいては、自分自身に対する嫌悪感にも。購入者の感想に、こまめに洗うのが気にならない、とか、生理が来るのが楽しみになった、とかいうものがあって、使用前は半信半疑だったのだが、納得。自分に対する愛情めいたものが増すのではないか。
 生理の時に問題なく使えるかどうかは、試してみないとわからないけれど、もっと早くに出会っていたら、もう少し違う自分がいたのではないかという気もする。いろんな意味で。

根性「婆」色

 意地汚い様を表す表現として「根性ババ色」という関西の方言があるそうだが、今回の一周忌法要で、この言葉、義母のためにあるような言葉ではないかと思ってしまった。
 義母が金にだらしのない人だということは、結婚当初からうんざりするくらいよくわかっていたが、だらしないだけでなく、非常に金にきたない人間でもあるということを今回思い知らされた(義母は、それを私には知られていないつもりで取り繕っているが)。このところ、夫も2人の義姉たちも、義母の金銭管理のできなさかげんに頭を抱えているが、私からすれば「ようやく私のあの気持ちをわかってくれたか」というところ。もっと率直に言えば「何を今さら」という気持ちである。
 1年前に義父が亡くなって、今回からは名義(?)の上でも長男である夫が施主となったわけだが、義母としては、お布施、法要後の会食の費用、参列者への引き出物等々の諸費用をすべて息子である私の夫に出させた上で、集まった「御仏前」はぜんぶ自分で抱え込むつもりでいたらしい。夫の側の法要関係について具体的にどれだけの金額の出入りがあるのかについて、私は詳しく知らされていなかったのだが、今回の顛末と過去に私が感じていた疑問を照合して夫に問いただしたところ、これまでも夫は、母親に言われるままに言われた金額を出し(毎回10万円程度)、御仏前は全部義母が握っていたとのこと。法要ごとに参列者も違うだろうから金額も異なってくるが、今回の御仏前の総額は14万。要するに、義母にとって法事は「金儲けの一大イベント」だったわけで、彼女からしてみれば、横からしゃしゃり出てきた嫁にむしり取られた、というところなのだろう。
 法要の翌日に「会計報告」をした夫と義母とが激しく言い争っていたが、そのなかで夫は「こんなことを言う子ではなかったのに」的なことまで言われた様子。要するに、嫁の私に言わされているということなのだろう。事実そういうことなので、私としてもそう思っていただいて不足はないが。
 義母は黙っているととにかく無駄な金銭を使いたがる人である。事前に夫から強く「私たちの引き出物はいらないので、絶対に買わないように」と言ってもらっていたため、私たちの分の引き出物(もらってもしかたのないようなもの)は何とかナシということになったが(というか、そもそも施主なので引き出物をのらうというのがおかしい)、これまた「いらない」と言っている義姉夫婦(義母からすると娘夫婦)の分どころか、まだ独立していない姪(義母の孫)の分まで購入。笑えたのが、自分用の引き出物まで買っていたこと。「あんたは施主なのか参列者なのか、いったいどっちなのかはっきりしろ」と問いただしたいところだ(当然、彼女自身の分の「御仏前」は出していない)。
 何も、私たちがさぼって義母に任せっきりにしているわけではなく、今回のことにせよ、お盆のあれこれにせよ、「お義母さま、教えていただいたら、私たちでいたしますから」と言っているのに手放そうとしないのだ。なんでそんなに自分ですることにこだわるのかと思っていたのだが、今回その理由がはっきりわかったのだった。
 法事で「大儲け」した金は、おそらくは、天理教の教会で大盤振る舞いするのだろう。私はこれがいやでしかたがない。自分の生活費の管理すらきちんとできず、何かあればすべて子供たちに支払いをさせ、さらに「お金が足りない、お金が足りない」と大騒ぎして無心をするのに、何が人様へのご奉仕か。毎月なんとかやりくりをしてやっとまとまった金額がたまると、なんだかんだとごっそり持って行かれてしまう。これの繰り返し。本当に足りないのであれば、それは親なのだからできる範囲の援助をして当然だろうが、使途がわからない金銭を拠出させられるほどむなしいことはない。つましく暮らして貯めている老後資金を食いつぶされる、といったらいいだろうか。「あと数年だから」と自分に言い聞かせてはいるものの、この「あと数年」はいったいいつまで続くのだろう。
 ただ、天理教での大盤振る舞いも、今回のことから察するに、大盤振る舞いすることでしか、人の気持ちをつなぎとめられないということなのかもしれない。そう考えると、哀れではある。

恐怖の館

義父の一周忌で夫の実家に来ている。
滞在初日にどうしても気になるのが家の臭い。古い一戸建てだから仕方ないのだろうけれど、土臭さとアンモニア臭の入り混じった独特の臭いがどうも耐えられない。とくに風呂場。未だに水洗になっていないトイレではなく、風呂場。今回はとくにきつい。
その風呂に入っているときに3度、悲鳴をあげそうになった。
最初は扉を電気をつけて中に足を踏み入れたとき。奥の壁際をすすすっと動く物影。ゴキブリを見て悲鳴をあげるようなタイプではないのだが、そこは入浴時。コンタクトレンズを外した眼(裸眼)も含めて全身裸。無防備なことこの上ないわけで。ゴキブリがシャイな(?)性質で明るい場所へあまり出て来ないことに感謝。
で、ゴキブリを牽制?しながら体を洗い、湯船に浸かりながら件のアンモニア臭の元凶を探るべく鼻をクンクンさせながら、ふと湯船の横のバケツに目をやると、1センチくらいたまった水の中に、今度はゲジゲジの死体を発見。これが2度め。
耐えられなくなって風呂から上がろうと湯船をまたいで一歩踏み出した左足。そのかかとに嫌な異物感。絶叫しそうになるのをぐっとこらえ、恐る恐る異物の正体を見ると、そこにはまた別のゲジゲジの死体が。私に踏まれる前から死体だったのかどうかは不明。
トラウマになりそう。

人に作らせておいて「作ってみた」とは何事ぞ

たまたま読んだ赤の他人様のブログにケチをつけるのも気が引けるのだが、気になった言い回しがあった。
テレビでタレントが作っていた料理が美味しそうでヘルシーだったので、妻「に頼んで今日作ってみた」というもの。変な日本語だと思いつつ、食材の見立てとか下ごしらえなんかに人の手を煩わせたということかしらん、と読み進めたのだが、当の本人は台所に入らなかったとのこと。
当人からすれば、「主語と述語がねじれちゃった」類の、ちょっとした日本語の言い間違い、書き間違いで、私のしていることはつまらない揚げ足取りなのだろうけれど、「実は言い間違いにこそ話し手の深層心理が現れる」とか「神は細部に宿る」とといったことが、この場合には当てはまるような気がする。