恐怖の子宮体ガン検診

4月末に(何度目かの)危篤に陥った義父を5月半ばに見送ったのだが、そのときの過労とストレスでホルモンバランスが崩れたのか、この過労とストレスが更年期の引き金をひいてしまったのか、あるいは他に何か原因があるのか、このところ、不正出血が止まらない。葬儀の少し前に始まった生理も、いつもの盛り上がり(?)というかメリハリに欠けてダラダラしていたし・・・。
そんなわけで、ようやく昨日、意を決して婦人科で診察を受けてきた。もちろん、原因が直ぐ分かるわけでもなく、とりあえず検査を受け、止血剤をもらってきた。1週間後に再度診察を受けるように言われた。出血が止まっていなかったらホルモン治療に移行、出血が止まっていたら子宮体ガンの検査だそうな。
子宮体ガンの検査ってものすごく痛いのだよな。1年ちょっと前に健康診断にプラスして受けたときがものすごかった・・・。女性の医師が一人でやっているから選んだ病院だったのに、なぜかアルバイトで男性医師が入っていて、これ自体でそもそも騙された気分だったのだが(なんで夫以外の男の前で大股広げなきゃならんのだ!)。その男性医師に「少し痛みがありますがどうしますか」と聞かれ、どの程度の痛みか尋ねたところ「生理痛みたいな感じ」との答えだったので検査を受けてみたら、その痛いの何のって。何が生理痛だ。話が違う。あまりの痛みに下半身が痙攣を起こした。「生理痛がどの程度のもんか知っとるんか。だいたい生理になったこともないくせにいい加減なことぬかすんじゃねえ、ごるあ!」と毒づきたくなったほど。
きっちり1週間後だと、万一翌日の授業に障ったらまずいと思い、仕事に支障が出ないよう、次回の来院を少し日延べしてもらった(笑われたけれど)。
ちなみに、ざっくり検索してみたところ、痛みの程度は人によりかなり違いがあるとのこと。検査する医師によってもだいぶ違うらしいので、私の場合はハズレだったのかもしれない。

斎藤美奈子編『男女という制度(21世紀 文学の創造7)』

ちょっと質問をした知り合いに面白かったわよと勧められて図書館で借りて読んでみた。借りてみたら編者が私の好きな斎藤美奈子だったのだが、彼女の言うところの「野蛮な本」に仕上がっていると思う。所収されている論稿は次の通り。

個人的に面白いと思ったのは、斎藤の編者前書きと、佐々木の論稿、「男の子」のジェンダー(の再生産)を考えるさいにRPGも射程に入れたひこ・田中の論稿、それから、金井の論稿とそのなかで扱われているテキスト。
大塚論稿と小野論稿は、テーマは面白いのに、(少なくとも私にとっては)残念ながらちんぷんかんぷん。
ボーイズラブを扱っている論稿の趣旨からは完全にはずれる読みになるけれど、「女の子向け文庫」をテーマにした横川論稿の次のくだりを読んで、コミックス「のだめ」をこの視点で読み直したら面白いんじゃないかと思ったりもした。

「友愛」タイプの作品では、語り手の視点は状況に応じてAとBとの間を行ったり来たりするのが常だが、どちらかと言えば、そのバランスはB(物語中の完璧な補佐役を指す―引用者注―)の方に偏っている。確かに全体的なストーリーの流れを作るのはAだが、BにはAを積極的に助けようという、Aにはない強い意志がある。この点を重視すれば、そこに起こる事件よりも登場する人物間の関係性で読者を引きつけようとする「ボーイズラブ」の枠組みにおいては、真正の主人公はむしろBであると言ってよい。そしてそのBとは、……生まれも、育ちも、顔も、頭も、性格も、どこも欠けるところはないとだれもが認めるような男の子なのである。

装幀がミルキィ・イソベ笙野頼子の本の装幀はいつもこの人だ)というシンクロも何かの縁か。

肉じゃが女

奈津子さんも結局は肉じゃが女でしたか。ああ、そうですか。
私だって肉じゃがは作るし、「舞台の中央でスポットライトを浴びることだけが大事なことなのではない。人にライトを当てることも大事な仕事」というドラマのテーマはそのとおりだと思うが、それとジェンダーが強固に結びついている感が否めないのが何とも・・・。
それにしても、脚本家のスタンスを完全に読み違えていたのがショック。

民法改正で解決することとしないこと

考えごとをしていてふと思ったのは、先日のエントリ葬儀記帳ご報告のコメント欄に書いた「2つの名前の間での引き裂かれ感」は、理想通りの民法改正が行われて「選択的夫婦別姓」が実現しても、もしかしたら解消しないのではないか、ということ。今回私が悩んだような、あまりつきあいのない姻族による認知という問題に対しては、――角が立つとか、ぎょっとされるといったことをのぞいても――民法改正も無力なのかもしれない(法律は万能ではないのだからあたりまえだが)。それとも、法制化により選択的夫婦別姓が浸透・定着し、夫婦でも別の姓を名乗ることがあるという状況が常態化すれば、今回のような悩みも解消していくだろうか。

葬儀記帳ご報告

先日参列した葬儀での記帳だが、結局、戸籍上の氏名を書いた。記帳をサボろうという腹だったのだが、「お一人様一枚ご記入ください」と言われて書かざるを得なくなった。「この人誰?」ということになって混乱を招いてもまずかろうということで。
よく考えてみたら、役所と病院ではいつも書いている氏名ではあったので、わざわざエントリーをあげて大騒ぎするようなことでもなかったのかもしれない、などと軽く反省してみたみたものの、他方で、ちゃんと自分を貫けなかったことへの(自分に対する)情けなさとか口惜しさみたいなものを感じたのも事実。やはり私にとっての戸籍上の氏名は、アイデンティティを伴う「わたしの名前」というより、健康保険の記号番号の延長にある「文字の羅列」に近い。
以前、「名前」と「リアル」で、私はこんなことを書いた。

 飛行機が落ちたとか、飲酒運転の車に追突されたとか、犯罪の犠牲になったとか、そういった不幸な事故・事件のニュースに接するときによく思うのは、もし自分がそういった出来事に巻き込まれて命を落とすようなことがあったら、自分の名前はいったいどういうふうに新聞に記載されるのだろうということ。まあ、そんな場合には、どのみち自分は死んでいるのだからどうでもいい話なのかもしれないけれど、戸籍上の名前で自分の死亡が報道されたら、私の友人や知人は、それが私のことだとわかってくれるだろうか。

私には子がいないが、今回思ったのは、自分がオットよりも先に逝くということがあるとしたら、そのとき私は「誰」として葬送されるのだろう、ということ。誰よりも私を理解し愛してくれてはいるけれど、私が通称を貫いていることにちょっぴりわだかまっているオット。その彼は、私を「誰」としてあの世へ送るのだろうか。氏の問題がアイデンティティの問題であることを理解していない(理解したがらない)オットに、通称で送ってもらうためには、(ひどく本末転倒なのだが)通称のほうで社会にバッチリ認知してもらうしかないのかな、などと思った。
ただし、より現実的なのは、オットよりも10歳年少の私が、彼の葬儀で喪主をつとめることのほう。今回の記帳と同じ性質の問題がより増幅された形で発生するわけで、悲しみで冷静な判断ができないあろう自分は、そのときどんな決断をするのだろう。縁起でもないことだし、そのときはそのときの「自然体」でいいのかな、とも思うけれど、ちゃんと考えておきたいとも思う。

ついでに、蛇足で「毒吐き」してしまうと、今回の葬儀は、ちっともありがたみの感じられない僧侶、手際の悪い葬祭業者、お役所仕事の葬儀会場、過度の合理性が人間性を疎外する火葬場、という不幸な要因が重なった。そこへもってきて、喪主が、何というかもう「最低」としかいいようのない男で(噂にはいろいろ聞いていたけれど)、傍観者的立場の私には非常に白々しく感じられる葬儀だった。故人に対して特別な感情の持ちようのない私にしてこうだったのだから、なにがしかの思いのある人にとっては、腹立たしいことこの上なかったろう。

記帳どうしようか

オットの親戚で不幸があって、明日、明後日が通夜、告別式である。知人の結婚披露宴に夫婦で出席したり、自分の親戚の葬儀に自分一人で出席したりした時は、何の迷いもなく通称で記帳をしたのだが、オットの親戚での記帳は、じつは明日が初めて。ふってわいた出来事に、どの名前で書こうか急遽思案中。
披露宴後の挨拶状や毎年の年賀状は、連名(オットの戸籍名+私の通称)でずっと出してきたのだが、多分そんなことはオットの親戚たちには認知されていない(オットの姉たちだけは、私の名前を通称にして連名で年賀状をくれることもある――年によって違ったりする――のだが)。しかも、故人はオットの叔母だが、個人的にはほとんどつきあいがない。
今自分頭の中に行き交っているのは、次のようなこと。

  • 親戚の冠婚葬祭には、否応なしに「家」の要素が入り込んでくる。
  • ここで通称での記帳を行うと混乱を招くかもしれない。
  • 通夜・告別式の記帳は、香典返しの問題もあるし。
  • オットは、私が通称を名乗ることに積極的に反対こそしないものの、実はあまり快く思っていない(「妻がオレの名字を名乗らない」→「オレを否定されている」「妻が自分の軍門に下らない」「男としてふがいない」的な発想に陥っているように見受けられる)。
  • 親戚の不祝儀でそこまでやると、角がたたないまでも、ギョッとされる?
  • かといって、法律上の氏名で記帳するのも気が進まない。

親戚関係の行事での記名というのは、別姓を実践している人たちの間でも、仕事や交友関係での認知の問題にウェイトを置いて考える人と、純然たるアイデンティティの問題としてとらえる人とで、大きく立場が分かれるところかもしれない。私は結婚してしばらくして仕事をやめたにもかかわらず、オットの姓を名乗ることに違和感を感じて通称で通しているということで、アイデンティティの問題としてとらえてきたはずなのだけれど。
とりあえずの解決策としては、香典をオットの名前で出すことなのだし、私は参列するけど記帳しない、というあたりかしら。解決策というよりも問題を先送りしているだけのような気もするが。
普段ここで吠えたりしているのに、いざというときに気が小さいというか、「へたれ」な自分に、やや自己嫌悪。